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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で脚光をあびる源頼朝の再起。その舞台が房総で、再起の第一歩が鋸南町から始まります。頼朝上陸地の鋸南町竜島には、たくさんの伝説が残されています。
舟から岩場へ一歩踏み出した頼朝は、知らずにサザエを踏んで足を痛めます。怒った頼朝は「サザエのつのなど無くなってしまえ」と言い、以来、竜島のサザエのつのが無くなったという話。また村人が頼朝をもてなして、姓をもらった話。
頼朝はお礼に安房(あわ)一国を与えようと切り出しますが、村人は、安房と粟(あわ)を勘違い、安房一石など家にもあります。それより姓を下さいと言い、頼朝は欲の無さを笑い「そうか、ばかだなあ」とひとりごと。それで姓をくれたとまた勘違いし、「左右加(そうか)」「馬賀(まが)」と名乗るようになったという話です。「生貝(いけがい)」「鰭崎(ひれさき)」「柴本」「菊間」「松山」「久保田」「中山」など姓をいただいた竜島の七家。何も持たない頼朝さんにとって、あげられるものは姓ぐらいだったのかも。でも村人にとっては立派なステイタスになったでしょう。
先着していた北条時政や義時が、頼朝が舟で来る目印として、白旗を建てた山が旗(はた)立山(たてやま)と呼ばれたり、頼朝ののどをうるおした井戸が玉(たま)ノ(の)井(い)と呼ばれ、地区の小字になって現在に伝えられています。
さて、竜島の神明神社で今後の方策を練った頼朝一行、長狭方面へ味方の豪族を求めて出発します。吉浜から山間に入り、江月、佐久間、大崩へと、追手を気にしながら山中の古道を西へ向かったと思われます。江月を通りかかると、名馬を献上されました。馬のいた場所は「馬ノ住(まのすみ)」と呼ばれ、馬つなぎ石と言われる石が残されています。頼朝はその馬を「池(いけ)月(づき)」と名付け愛馬とします。江月は池月が変化し、江月という地名になったと言われます。
途中、佐久間へ下った頼朝は、谷(やつ)地区の密蔵院(みつぞういん)の不動尊に戦勝祈願。のちに頼朝が天下を取ると、立身不動と呼ばれ多くの参拝者が訪れたそうです。また上佐久間の十王堂は、頼朝が梶原景(かじわらかげ)時(とき)に命じて創建させたと伝わります。
大崩の山間を通っている時、追手が迫ってきました。頼朝らは谷間の沢に愛馬とともに身を隠します。ここが後に「源氏ケ谷(げんじがやつ)」と呼ばれ、身を潜めた沢が「頼朝馬隠(うまかく)しの沢」と呼ばれています。やはり、敗残の身ですから神経もピリピリしていたのでしょう。
市井原から富津市上総湊方面へと抜ける山道は、頼朝が通った古道と言われ、「みやま」と言います。ここを通りかかった頼朝の頭の上に、椎(しい)の実がちょうど落ちてコツンと当たります。頼朝、またも癇癪(かんしゃく)を起し、「みやまに椎はあれども、実はなるな」と怒り、以来、実がならなくなったとか。
鋸南町の頼朝伝説は、笑いあり、緊迫感あり、地元の支えあり。様々な伝説を残しながら、頼朝は見事勢力を立て直し鎌倉へ向かいます。笹生浩樹(鋸南町学芸員)
車で東京から1時間、川崎、横浜から40分の距離にある千葉県房総半島の鋸南(きょなん)町。1年中、水仙や桜、菜の花などが咲き誇り、東京湾と相模湾で獲れる魚貝は新鮮ピカ一。早くから別荘地として知られ、海水浴はどこよりもにぎわった。
葛飾北斎に影響を与えたといわれる「波の伊八」彫刻は浮世絵の祖・菱川師宣に導かれ、一茶や漱石ら文人、芸術家たちの作品を生み出した風土と景色が町中にいまも伝わる。
しかし、最近は人口流出がはげしく、高齢化の波はこの町にも容赦ない。保育料の無料化や若い移転者への優遇政策はとても厚いが、まだまだ過疎化の波は止まらない。
そこで、わたしたちは鋸南町(鋸山の南にあるという意)の過疎化や人口減少を逆手にとる。自然がいっぱいで食べ物も新鮮、空き家だって町が仲介して格安、畑や田んぼは無料に近い料金で借りられる。そうした良さを町内外に伝えようと「野水仙つうしん」を発信している。
写真提供:松田昭、中村幹雄
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